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2015年5月1日金曜日

クリスマスパーティー



一度テニスサークル主催で、クリスマスパーティーを

催したことがあった。


ミナミの、会場は忘れたが30人ぐらいで

自分たちで司会進行し、プレゼントを交換

ケーキもなんだかデカかった思い出である。

しかし、そのような

イベントの際には得意、不得意があり

自分が何を準備したのか記憶があいまい

である。




まあたぶんいつものように

ぼやぼやしている自分が

そこにいたのだろう。





なんと幸せな大学生活であったことか。




そんな感じや



スポーツ用品のメーカー派遣アルバイトをしていた

おかげで、ウインタースポーツのウエアなども

安く買うことができた。

当時は私をスキーに連れてってが

流行っていたころである、



ということで、テニスサークルは

冬はスキーサークルと化した。

だが、私はスキーなどしたことがなかったのである

とりあえず板はレンタルで

友人たちに連れて行かれた琵琶湖近辺の

スキー場、初スキーなのだがレッスンを

受けることもなく



初心者コースで上まで連れて行かれ

何度もコケながらやっと下まで・・・・





友人たちは言ったのである、そんな感じや~




夕方帰るまで友人には一度もコースで

逢うこともなく、もくもくとコケながら

雪と格闘していた私がいた。




おもろかったやろー・・・・・・



と言う友人たちと下宿に帰るまで

お前らなー・・・・・とすねている私

いい思い出である









たこやき



ある年、テニスサークルで大学祭に模擬店を出店

することとなった、

学園祭の期間中に屋台で、たこ焼きを

販売するのだ。

関西の方は実際に

自宅でたこ焼きを焼くというのを

の時はじめて知ったのだが

筆者はそんなことしたことがなく

いつものように、何を準備して何を

したらいいのか・・・



誰が言い出したのか、先にチケットを

作って販売しようと、そうするとどれくらいの

個数を作ればいいのかが分かるので

採算性がよいなどと言い出した、

いま思えばなるほどプリペイド制で

なかないい企画であった。


しかし



これからがいけない・・・・

数の予測が大幅にちがいだして、”タコ” が足らないって

友人がいそいで買い出しにいく羽目に。

当日チケットを他の女子大の美人2人組みが

手伝いに来てくれ販売したのだ

チケットがみるみる売れて行く様を

ニヤけて見ていたのは



同じようにチケット販売する役回りの

スーツを着こみ、まるでナンパをしているような姿の

弁当屋でおかずをサービスしてもらえる例の



男前の彼と、筆者であった。













秋の実り



下宿の隣の部屋に農学部の同級生がいた

卒業論文を書くのに実際に農作物を栽培

してそのデーターを基に作成するのだと

言っていた。

気温や雨量などが気になるらしく

台風など気候変動に左右されるので

大変そうであった。

しかし元来やさしく人当りいい彼は

おでんをつくったんや、食うかなどと

いろいろ付き合ってくれたことを

思い出す。

法学部の私の卒業論文は

賃貸借契約における無断譲渡と解除に

ついて・・・・・

などと判例を基に書いていくようなもので

有名人になったとき

コピペを指摘されると大変かも・・・

台風が来ると思い出す隣の友人のおでん。

だが彼が何を栽培していたのかは思い出せない。
















戎橋

戎橋界隈にあるスポーツショップでアルバイト

をしたことがありました。

陸上競技をしてきたわたしには

とても趣のある商品がいっぱいあり

ジャージ、ウエア、などの販売、在庫

管理の仕事でした。




メーカーのアルバイトでしたので

そのメーカーの商品は社員価格で譲ってもらうことが

出来たのでスキーウエアの最新型など

を入手し、とてもうれしいアルバイトでした。

その年は在阪の球団が優勝し

街のにぎわう中、ビルの窓からその

光景を眺めていたとき、あの戎橋から



道頓堀に飛び込む人たちを目撃した


思い出が・・・





グリコの看板がかけ替えられるたびに


思い出すのでしょう。














ストリートビュー




寮の近くに喫茶店があった。

コーヒーをサイフォンで入れており

いい香りが漂うおしゃれな喫茶店だ

もちろん軽食もメニューにあり

スパゲッティーや焼き飯

ハンバーグなどなど

私の今でも好きなメニュー達である。

何の拍子か3回生のころ、この店で

アルバイトをすることとなるのである。

友人と2人、ママさんに教えてもらい

中華鍋を使い焼き飯を作り

サイフォンを使いコーヒーを・・・



友人は洗い物のほうが楽だといい

なぜか私が調理場に立つことが多かった。

もちろん賄いでごはんにありつけるので

大変助かったのである、

そんな記憶がストリートビューの画面の

なかに、店のたたずまいがあの頃の

コーヒーの香りを

よみがえらせるのである。











ジャパン




京都の北西部、日本海を望み

天橋立に数名で小旅行した。

景観の美しさは素晴らしかった

展望できるところで、またの下から

逆さに見ると本当に天の架け橋の様だった。

また、友人の郷里の網野を訪ね琴引浜という

砂の綺麗な浜辺に案内してもらった、

歩くと砂が擦れ合い、くっくっと音がするのだ

今もなっているのか素晴らしい自然である。

道中は友人の家の車で、マニュアルミッション

これまた、私が運転するとギクシャク

当時は運転技術の未熟な私は、後部座席が

お似合いで、素晴らしいシルバーカラーの

スカイラインジャパンは颯爽と国道を

駆け向けてゆくのであった。

また、豊岡も友人宅を訪ね、経営する

ボーリング場にも案内してもらった。

あの美しい自然のたたずまい達は

今もその姿をとどめているのであろう

遠い記憶の中にも。





太平洋の大海原




友人が帰省するのに合わせて

郷里にお邪魔する機会があり

これまでに経験したことの

ない出来事があった。

太平洋を船で渡る、と・・・

行っても大阪から高知にフェリー

でした、夜に出かけて朝には

着くよ、と友人の言葉をうんうん

と適当にきいて、おのぼりさん状態で

大阪南港を出発した。

こんなに揺れるものなのか、思った

時すでに遅し、立っていても横になっても

身の置き所がない、風に当たっても

体の異変が静まらない、ふらふらの

状態で朝を無事迎えることとなる。


到着した友人宅ではありがたい歓迎を受け

朝からビールをごちそうになり、

またもや撃沈。

高知城や、はりまや橋を訪ねて

横波黒潮ラインをドライブ

楽しいひと時を過ごせた思い出。



しかし長い船旅をしていた幕末の

志士たちを想像すると・・・

いやーすごかったんやなー

となるのである。

お弁当やさん




大学生のころ、外食で今のように

持ち帰りのお弁当やさんがあり、

よく食したものだが、ある日

友人が面白いことを言い出したので

一度試したことがあります。

友人の言うには、かっこいい

お客には鳥の空揚げが1つ多い

などということで、じゃあ

それぞれ順番に買いに行ってみよう

と、かっこいいもう一人の友人を

呼び出し一番にいかせ、それから

順番に・・・・

そんな暇があったら勉強しろと

今から思えば自分たちに問いかけ

たいですが。

そのかっこいい友人はそのかっこよさ

から、みんなに突っ込まれるボケ役に

回ることの多い奴ですが今も大阪で仕事

してます。

今度あったらまたどこかの

お弁当屋さんで、・・・・

坂道発進




友人がアルバイトをしてバイクを買った

彼はそのバイクにまたがり北海道の

大地へと旅に出かけた。

いろんな出会いがあり、知り合い

もできて、とても有意義だった

みたいだ。

その友人が北海道で知り合った

2人組の女性が、大阪に遊びに

来ることとなり、友人と神戸を

案内する計画を立てた。

異人館に行き、お昼ご飯はどこで

食べるか、どうやって行く?

友人はレンタカーを借りようと、

スターレットだった、当時は一番安い

マニュアルミッションで颯爽にドライブと

いう計画だ。

なぜか私が運転し、新神戸の駅前

おしゃれな坂の街並みに沿って

・・・・


案の定、坂道でエンスト、

若葉マークのありがちな行動で

エンジン全開で前に進めず

ブーンブーン 音だけが勇ましい

多くの観光客に注目され

神戸での恥ずかしい思い出となる

のであった。





大阪弁をリスニング




まあ、4年間も住んでいれば

多少の難解な大阪弁も聞き取れるように

なって、しゃべる方も変な大阪弁を

駆使するようになってゆくのです。

九州で生まれ、物覚えがついたころには

岡山で過ごしてきた私も、なんば花月を

土曜日の学校が終わってテレビで

見ていたので、そんな感じでした。

当然関西弁も地域によってさまざま

なんでしょう、和歌山の友人と

河内の友人のしゃべっているのが

ごちゃごちゃとなり、頭のなかで

英語のように鳴り響くことも

ままありましたが。

標準語の情報のなかった

古代の日本人はどーだったのだろ

大河ドラマの黒田官兵衛を

見るたびにそんなことを思うので

ある。

思いませんか




コロッケ定食




大学生時代の下宿生は食事が不規則だった、

しかしやはり学生街はありとあらゆる食べ物

ソウルフードのあるところで、不便はなく、

何時でも食べ物にありつけるのでそうなった

のであろう。

お好み焼きにごはんがSETされていたり

うどんとごはんがSETされていたりする

また値段も安くおなか一杯になるものだった。

私は定期的に母が送ってくれる宅急便のなかの

食材を使い自炊することもあった、いま思えば

その方が好きだった。

実家から通っている今は東京にいる友人は

殊のほか、大学の地下にあった学生食堂の

コロッケ定食を好きだといって

よく連れて行かれたものだ。

コロッケとキャベツ、ごはんとスープ

それだけだが当時150円・・・・

私は母が送ってくれる缶詰でごはん

のほうが好きだった。



小旅行




時間の感覚は人それぞれ、年代によっても

それぞれかもしれませんが、大学生の時代は

時間がたっぷり、また未知との遭遇は日々が

小旅行の様に新鮮な発見や経験をしていくものです。

計画して何かを行うのもよいが、行き当たりばったり

ってヤツはそれはそれ、愛車タクトを駆ってミナミの

コーヒーの青山に意味もなく出かけてみたり

友人のγ(ガンマ)で生駒スカイラインをドライビング

まるで浜田省吾さんの世界感、真夜中のドライビング~

昔のように~

勉強はいつしていたんだろう。

きっと時間がたっぷりあったんだなーと思うと

年代による時間の感じ方の違いを実感する

毎日である。

電話のなかったあの頃




電話が家庭に一台のあの頃

当然私の下宿には、電話機はなかった。

廊下の一番端っこにピンクの電話、十円を入れるやつだ

かかってくる電話もこれで、下宿生の家からかかってくるのも

先輩の就職活動の連絡もこれで、誰もいないときには

大家さんの奥さんが代わりに受け答えをしてくれている。

今思えばどーやってたのか、悠長なもので友人との約束なんて

大学に行くと誰かいるので連絡はついていたのである、

互いを信じて、その場所で待っていることが

当たり前の時代だったのだ、今は良き思い出である。



レコードからCDへ




レコードプレーヤーを下宿の部屋に実家から

持ってきていたので、、よく聞いていたものです。

サザン、佐野元春、大瀧榮一などなど

自宅から通っている友人は、当時の私たちには

憧れの自動車を持っているのが数人いて

カーステレオをかけながら、六甲山に走りに行く

なんてとてもワクワクしながら、時を過ごした

ものです。

クレスタ・・ハイソカーって言ってましたよ

ファミリアXGターボ・加速がすごかったです

大家さんの家には、ソアラツインターボ・・

どんだけ儲けとんや

そんななか、自転車から始まった私の移動手段は

原ちゃりスクーター・ホンダ タクト になりました、

探偵物語の工藤ちゃんばりに、ベスパとはいきませんが

当時は規制前でヘルメットはいりませんでしたので

風をうけながら、爽快でしたね。

で何時ごろから、CDになってたかな。







テニスサークルの




ほとんどテニスをしたことがない私が、

勧められるままサークル活動に入った

のは友人のおかげかもしれません。

テニスコートの予約を取るのも

至難の業で、徹夜で公園事務所

の前で並んで待っていたり、

どこかで大学サークル同志の試合があるので

参加手続きをしてくる、などその多くを

友人たちの実行力にどちらかというと

ぼんやりしている私は、ついていくだけで

とても皆の先頭に立って物事を進めるタイプ

ではなかったので、今頃考えてもすごいなあ

と思い出すのである。



大学の講義




大学の講義はご存じの方もいらっしゃるでしょうが、

1回生2回生は主に一般教養ですので、大講義室

と通常の教室で行われます。

私の大学では大講義室の収容人数は多く、はじめのうちは

ほとんど聞いてないことが多く友人との集合場所

になってましたね。

しかし、前期のテストが行われたときは、やはり焦りました

大きな解答用紙の、白紙の欄にすべて解答を記入しなければ

なりません、まあ作文の能力とどれだけ授業を聞いていたか

が答えになるので到底追いつかないのです、

あのとき、もっと勉強していたらなあ、

先日ラインでやり取りしていた東京の学友のつぶやき

にその当時を思い出したのである。


銭湯に




当時は今のように学生向けマンションに

住むことが当たり前ではなく、不動産事情

により、近所に銭湯が数件ありました。

当然筆者も銭湯に通いましたが、今の健康ランド

みたいで楽しかった思い出です、

自宅から通う学生も夜に遊びに行く予定が

あれば一緒に銭湯に行き、大阪ミナミへ

繰り出すこともありましたね。

学生街のにぎやかな商店街を歩いた毎日でした。


大阪での暮らし




大阪での下宿で4年間過ごすことになるが、

まずはアルバイトですね、色々しましたが

季節によっては府営プールの監視員とか

引っ越し便の作業員とか

一番長く続いたのが喫茶店でしょうね

そこで少々の料理の作り方も覚えることが出来ました

法学部法律学科の学生なんですが、将来何になるつもり

だったんでしょうね

毎日が新しい経験で楽しい思い出ですね

大学生になり




故郷をはなれ、大阪に。

受験の日は大雪で大阪の街が大混雑していいた記憶があります。

いろんなところを受験していたので、大阪に決めたとき

初めての一人暮らしに希望と不安でいっぱいでした

法学部の教室でどんな経緯で知り合ったのか、今ではよく覚えて

いないが5.6人の集まりが出来てそれから自然のながれで

サークル活動でテニスをするようになりました。

下宿だったので、よくみんなで私の部屋でわいわい、ガヤガヤ

多くの時間をいろんなことにチャレンジしてゆくことに

なるのである。